杉田庄一略歴

大正13年(1924)7/1 
・東頸城郡安塚村小蒲生田(現上越市浦川原区)の農家に六男三女の次男として生まれる。父秋作、母イヨ。 昭和5年(1930)
・東頸城郡中保倉尋常小学校入学。相撲や短距離走など東頸城郡大会で活躍。担任竹内友幸は「他校との弁論大会ではいつも入賞していた。論理的に意見を述べる才能があり、学校の成績は一番だった」と述懐している。
昭和12年(1937)
・東頸城郡中保倉尋常小学校卒業。冬は2m以上の雪が積もる片道2kmの山道を一日も休まず皆勤賞をもらう。
・東頸城郡下保倉高等小学校入学。高等小学校は顕聖寺地内にあった。模型飛行機作りを趣味とする。
昭和14年(1939)14〜15歳
・安塚村立中保倉高等小学校卒業。        
・安塚農林学校(現安塚高校)に入る。片道7.5kmを徒歩通学する。         
・海軍少年航空兵を志願、合格する。
昭和15年(1940)15〜16歳
・3月 海軍から採用通知が来る。出頭は3ヶ月後の指定日。
・6/1 舞鶴海兵団入団。「海軍四等航空兵を命ず」「舞志飛第一四九一号」「土浦海軍航空隊に派遣」
・10/15 「海軍三等航空兵を命ず」、58人中7番。「鹿島航空隊」「第三期丙種予科練生(操縦専修)予定者トシテ土浦航空隊ニ派遣」
昭和16年(1941)16〜17歳
・2/28 「土浦航空隊入隊」「第三期丙種予科練生」。
・4/28 「筑波航空隊」予科練卒業と同時に「昭和16年勅令第625号海軍三等整備兵」「第十七期飛行(操縦専修)練習生」、474人中156番。中島隆教員に指導を受ける。中島教員から指導を受けた同期6人の中に、杉野計雄、谷水竹雄がいた(二人とも多数機撃墜者として知られる)。
・6/1 「昭和十六年勅令第六百二十五号により海軍三等整備兵」を命ぜられる。
・10/1 定期昇格により「海軍二等整備兵」を命ぜられる。
・11/29 大分航空隊で延長教育(実用機操縦課程)。戦闘機専従の杉田は、引き続き杉野、谷水と共に訓練する。
・12/8 太平洋戦争開戦。
昭和17年(1942)17〜18歳
・3/31 戦闘機課程を卒業し、「海軍二等飛行兵(転科)」を命ぜられる。
・4/6 第六海軍航空隊(木更津基地)に配属され、基地航空部隊零戦隊として錬成。ここでも杉野、谷水と共に訓練をする。この時点での技量は、C級(かろうじて離着陸が可能)である。
・4/18 米陸軍爆撃機B25による空襲。この影響で第二段作戦が早まりミッドウェイ攻略が決定する。
・5/17 ミッドウェイ占領後の基地航空隊になる予定の派遣部隊として輸送船慶洋丸で本土を出航する。
・6月 ミッドウェイへ向かう途中で海戦の敗北が分かり、トラック島経由で内地へいったん引き返す。
・7月 零戦が少なくなったため九六戦で訓練を続ける。
・8月 日本軍、ガダルカナルに飛行場建設。完成と同時に、米軍が上陸し基地ごと占領される(第一次ソロモン海戦)。
・8/23 日米機動部隊が交戦。(第二次ソロモン海戦)
・9/3 杉田ら六空先遣隊第二陣がラバウルに着く。
・9/13 初出動、ラバウル基地上空哨戒任務。敵と遭遇せず。小隊長は神田佐治一飛。
・9/15 初空戦、大正谷一飛の三番機としてB 17に20mm 70発、7.7mm 100発発射するも逃げられる。
・9/23 ラバウル基地上空哨戒任務。
・10/2 ガダルカナル島敵航空兵力撃滅戦、第三小隊三番機(カモ小隊カモ番機)で出撃するもエンジン不調で帰投。
・10/5 偵察機直掩任務でガダルカナル島方面に出撃。またしても第三小隊三番機(カモ小隊カモ番機)。
・10/7 六空主力隊がラバウル到着。24機中3機が不明になる。
・10/9 六空、ブカ基地に移動。
・10/11 船団上空哨戒任務で出撃(一直)。(サボ島沖海戦)
・10/12〜31 デング熱で出撃できず。
・10/31 海軍一等飛行兵(一飛)を命ぜられる。陸海軍の階級を合わせるため翌日には昇進している。
・ 11/1 第六航空隊が第204航空隊(204空)に名称変更。海軍飛行兵長(飛長)を命ぜられる。
・11/2 増援輸送部隊護衛任務で早朝3時50分出撃するも、悪天候で第一小隊3機のうち2機が遭難、杉田のみ生還。
・11/12 輸送船攻撃艦爆隊援護任務で出撃するも天候不良で引き返す。
・ 11/13 B17がブイン上空に飛来し、204空が攻撃するもゆうゆうと逃げられる。B17対策の研究が始まる。
・11/28 輸送船哨戒任務で出撃、B17に対し三号弾(クラスター爆弾)で攻撃するも逃げられる。第二小隊二番機。
・ 11/30 ブイン上空に飛来したB17に追撃するも逃げ切られる。第一小隊三番機。
・ 12/1 訓練中にB-17を発見、単独猛接近で攻撃。肉薄しすぎてぶつかってしまい、結果として体当たりでの初撃墜となる。方向舵を失うが無事帰還。怒られると恐縮して報告に行く、小福田戦闘機隊長から褒められて一升瓶をもらい、仲間と飲む。隊でのB17単独初撃墜。
・12/7 ガダルカナル島増援部隊上空哨戒任務。驟雨の中での出撃。敵と遭遇せず。杉田は第一小隊二番機。
・12/12 ガダルカナル島増援部隊上空哨戒任務。この日も敵と遭遇せず。杉田は第一小隊二番機。
・12/28 ブナ基地の放棄が決定(ポートモレスビー攻略の放棄)。
・12/31 御前会議でガダルカナル島からの撤退方針が決定される。
昭和18年(1943)18〜19歳
・1/2 輸送船団上空哨戒任務、ブーゲンビル島付近で空戦。宮野大尉2機、杉田ら6人が各1機ずつ撃墜。
・1/6 ポートモレスビー攻撃援護任務、B24と交戦。杉田は第二中隊第二小隊二番機。
・1/17 水上機母艦香具丸上空哨戒任務。杉田は第二小隊二番機。
・1/18 敵機追撃任務。杉田は第一小隊二番機。
・1/19 特設艦阿蘇丸護衛任務。杉田は第一小隊二番機。杉田は、指揮官の二番機についていることが多い。編成は指揮官が行う。全体指揮のため指揮官機は自分を守るための周辺確認は二番機に任せるしかないため、信頼される部下を二番機につけたという。
・1/20 輸送船亜旺洋丸護衛任務。杉田は第二小隊二番機。
・1/24 ケ号作戦偵察任務。杉田は第一小隊二番機。ケ号作戦は、ガダルカナル島からの撤退作戦。
・1/25 ケ号作戦のための事前航空撃滅戦。杉田は第二中隊第三小隊二番機。悪天候で帰路、多くの零戦が不明になる。
・1/28 ルッセル島攻略部隊上空哨戒任務。杉田は第一小隊二番機。
・2/1 ブイン基地にB17が来襲、十二機で迎撃し四機撃墜。杉田は第三小隊二番機として参加。同日午後も船団護衛任務。杉田は第二小隊二番機。
・2/4 ケ号作戦、船団上空哨戒任務。杉田は第一中隊第一小隊二番機。
・2/6 下士官兵の考課表のための身体検査が実施される。
・2/10 艦爆隊直掩任務。杉田は第二中隊第一小隊二番機。
・2/11 船団上空哨戒任務。杉田は第一小隊二番機。
・2/14 B24による基地来襲、護衛機はP38とF4Uで追撃戦ののち二〇四空零戦隊はB24を二機、F4Uを二機、P38を四機撃墜した。このとき杉田は第一小隊三番機だった。
・2/16 船団上空哨戒任務。杉田は第二小隊二番機。
・2/18 船団上空哨戒任務。杉田は第二小隊二番機。
・2/24 敵機追撃任務。杉田は第二小隊二番機。
・3/3 ビスマルク海海戦、船団上空哨戒任務。杉田は第一小隊三番機。二〇四空として協同九機撃墜。
・3/4 船団上空哨戒任務。杉田は第一小隊三番機。
・3/18 敵機追撃。杉田は第三小隊二番機。
・3/19 敵船団攻撃隊直掩。杉田は第二中隊第一小隊三番機。
・3/28 敵艦戦攻撃艦爆隊護衛任務。杉田は第二中隊第一小隊三番機。二〇四空として協同六機撃墜。
・4/3 連合艦隊司令部がトラック島戦艦武蔵からラバウルへ移動。山本長官も移動。
・4/7 い号作戦(X攻撃作戦)で出撃。杉田は第三中隊第二小隊三番機。
・4/12 い号作戦(Y攻撃作戦)で出撃。杉田は第二中隊第一小隊三番機。
・4/13 敵機追撃。杉田は第一小隊二番機。
・4/14 い号作戦(Y1攻撃作戦)で出撃。杉田は第二中隊第二小隊三番機。杉田一機個人撃墜の記録。
・4/17 山本五十六連合艦隊司令長官の護衛機を命ぜられる。第一小隊一番機森崎武中尉、二番機辻野上豊光一飛曹、三番機杉田庄一飛長、第二小隊一番機日高義巳上飛曹、二番機岡崎靖二飛曹、三番機柳谷謙治飛長。 
・4/18 海軍甲事件。早朝出発、ブーゲンビル上空で待ち伏せにあい一式陸攻は撃墜され山本司令長官ら全員が戦死。この事件については緘口令が敷かれた。その夜、同室同期の大原氏にだけ事件のことを密かに伝える。
・4月22日、25日、28日、29日、30日と連続して出撃する
・5/1 海軍二等飛行兵曹(二飛曹)を命ぜられる。18歳で下士官になる。
・5月1日、9日、15日、23日、25日とブカやブイン方面への出撃が続く。
・6/3 ブインへ輸送機直掩任務。杉田は第二小隊一番機。小隊長デビュー。
・6月 ソ作戦で4日、5日、6日と出撃している。
・6/7 杉田、単独でF4Uを二機撃墜している。被弾四。
・6/12 杉田、F4Uを二機(うち一機協同)撃墜。
・6/16 セ作戦(ルンガ沖航空戦)、宮野隊長が未帰還になる。杉田は、一機撃墜、三機協同撃墜を記録している。
・7/1 杉田19歳の誕生日。早朝、同じく護衛機の搭乗員であった辻野上豊光一飛曹がレンドバ上空で約40機の敵機と交戦し消息をたつ。護衛機搭乗員で残っているのは杉田のみになる。204空、一時的に士官がいなくなる。
・7月中に21回の出撃。クラ湾夜戦やレンドバ島攻防戦で次第に米軍に押し込まれていく。この間にも、着実に撃墜を重ね、記録を更新する。ほとんどが渡辺秀夫上飛曹の小隊に編成されている。暑さと疲労のため食欲が 減じ、顔面に深いひだが刻まれ、異様な殺気があった。この頃、個人撃墜の記録が残されなくなっている。
・7月中旬 伝説の搭乗員羽切松男飛曹長が着任、隊の大黒柱となる。杉田は小隊長クラスで編成されるようになる。
・8/1 レンドバ港攻撃艦爆護衛任務。一次隊では杉田は第三小隊の小隊長。二次隊にも第二小隊三番機で参加。
・8/2 基地上空哨戒任務。一次隊で杉田は第三小隊の小隊長。二次隊では第四小隊小隊長。
・8/4 基地上空哨戒任務。一次隊で杉田は第二小隊の小隊長。
・8/6 基地上空哨戒任務。杉田は渡辺秀夫中隊長の三番機。二十四機の敵戦闘機と空戦、隊として九機撃墜。
・8/7 駆逐艦上空哨戒任務。指揮官羽切飛曹長の三番機。
・8/8 ショートランド島哨戒任務。杉田は第二小隊三番機。
・8/12 ブインへの敵攻撃に対して邀撃戦。杉田は第五小隊三番機。敵四十五機来襲し、隊として三十三機撃墜。
・8/13 レンドバ方面敵航空兵力撃滅戦。杉田は第二小隊三番機。
・8/15 べララベラ艦爆攻撃直掩任務。第一次攻撃、第二次攻撃ともに第二小隊三番機で出撃。
・8月下旬、羽切の二番機をつとめていた渡辺清三郎二飛曹が戦死したため、杉田が羽切二番機に入るようになる。
・8/23 べララベラ方面艦爆隊直掩任務。杉田は羽切の二番機。
・8/25 ブイン空襲敵機追撃。杉田は羽切の三番機。午後はE作戦部隊上陸直掩任務。杉田は羽切の二番機。
・8/26 被弾し重傷を負う。杉田はめずらしくじりじりしていた。昼頃に来ると思っていた敵が、この日は午後2時すぎにやってきた。敵はF4F、F4Uなど約二十機。空戦がはじまってまもなく、エンジンを敵弾に抜かれて火を発した。杉田は、たくみに機を操作して消火に努めたが、火勢はつのる一方で、手、足、顔などを焼き、落下傘降下した。渡辺秀夫も顔を撃たれ、眼球を抑えながら着陸している。
・9/3 ブインからラバウルの特設第八海軍病院へ送られる。杉本司令が病室に杉田を見舞い「わしはラバウルを去る。貴様も達者でおれよ」と告げる。
・10/13 病院船を経て舞鶴海軍病院へ移送される。癒着した手の指を切り離す手術を受ける。
・11/1 海軍一等飛行兵曹(一飛曹)を命ぜられる。
・11/2 一時帰郷。北陸線で直江津駅に到着、黒井駅から木製の軽便鉄道に乗り替え、終点浦川原停車場から歩いて家に戻る。帰郷時に中保倉尋常小学校で講演を行なっている。
・12/7 「徳島海軍航空隊転出、大村航空隊派遣勤務」という辞令をもらう。戦闘機搭乗員養成の教員になる。大村空には坂井三郎がいて、ソロモン戦域最多撃墜保持者として共に表彰される。
昭和19年(1944)19〜20歳
・3/14 大分航空隊に転出。
・3月 グアム基地の第263海軍航空隊(263空)では戦闘のためほとんどの下士官が戦死し、予科練を出たばかりの甲飛十期生たちだけになっていた。
・4/22 杉田、263空に転出。内地から輸送機に乗ってグアム島に着く。玉井浅一司令の前に、独特の挙手の礼で着任の報告をする(火傷のため指がのばせなかった)。待機所の搭乗員に『俺が杉田だ。何も言う事はないが、遠慮せずについてこい』と挨拶をする。
・4月下旬 甲飛十期生たちの訓練を引き受ける。自分の列機になった笠井智一などに昼は徹底的に訓練、夜は「俺の愛する列機来い」といって宴会を行う。
・4/25 グアム島基地に初めての空襲。迎撃戦、笠井は杉田4番機として初陣。基地に戻った後、「笠井こい!もっと接近して撃て!」と激しく叱る。普段は殴らない杉田はこのときだけは殴った。30m以内に近づけときつく指導。この指導があったことで、生き残ることにつながったと笠井は戦後にインタビューなどで語っている。
・5/28 ビアク島を守る「渾作戦」が発令される。第一次、第二次、第三次と「渾作戦」が実施されるが、ことごとく失  敗する。
・5/31 玉井司令の命により、ニューギニア・ハルマヘラ島カウ基地に零戦をもらいに行く。ハルマヘラに着くや否や敵機動部隊がサイパンに向かっているという情報でペリリューにもどる。
・6/11 サイパン島上陸作戦前の艦砲射撃がはじまる。
・6/15 サイパン上陸作戦が始まる。基地航空隊(第一航空艦隊)は、当初650機を展開していたが、ソロモン消耗戦を経て米軍のサイパン上陸に対応できたのは100機あまりだった。
・6/17 マリアナ沖海戦の前々日、サイパン上陸部隊への爆撃。263空は護衛として参加。杉田らは、サイパン攻撃のあともグアム島に残って連日、グラマンと空戦。
・7/8 部品をかき集めて作った零戦6機でペリリュー島に脱出する(4機という説もある)。杉田以外はみな士官。途中、グラマンに襲われ杉田のみが計器を壊された零戦で数百キロを洋上単独飛行してペリリューに着く。
・7/10 263空「豹」部隊のほか、「虎」「隼」「狼」部隊生き残り搭乗員で第201海軍航空隊(201空)がフィリピンのダバオに編成される。306飛行隊分隊長として菅野直大尉が配属される。このとき、23歳の菅野と20歳の杉田は初めて出会う。
・7/13 306部隊はヤップ島に進出。笠井らが陸軍憲兵と衝突事件を起こし、連日からまれる。そのため、菅野が嫌がって1500kmはなれたヤップにいくことになった。杉田は同行せず(同行した説もある)。
・7/16 菅野隊長のもとで連日笠井たちはB24邀撃にあたる。菅野分隊長の指示により「直上方攻撃」を取り入れ、1週間で撃墜17機(不確実9)、撃破46機の戦果をあげる。
・8/1 第一航空艦隊が再編される。
・8/10 セブ島に、横須賀航空隊から小福田大尉が来て「反跳爆撃」を指導される。菅野、杉田、笠井らが訓練を実施。戦闘301飛行隊で行なっていた反跳爆撃(スキップボミング)を201空でも菅野が実施。殉職事故が続き、あまりに危険すぎるとして訓練が中止になる。
・9/9 「ダバオ誤報事件」発生。ダバオ付近に敵が上陸してきたという海軍見張所の誤報に伴う退避措置で各飛行隊がセブ島に集結した。
・9/12 零戦が退避集結していたセブ基地に大攻撃を受ける。零戦60機が地上で撃破される。逐次発進できたのは10数機だった。菅野が迎撃にあがるとき、すぐ後ろに杉田がついていた。
・9月 306飛行隊が再編成される。菅野と杉田で出撃のたびに撃墜を重ねる。
・9/22 比島決戦作戦準備発令。しかし、零戦がなく菅野大尉に内地より零戦を空輸する命令が下り、空輸隊を結成する。杉田、笠井らも空輸隊メンバーに入れられ、10月には内地入りする。
・10/9〜 沖縄、ルソン、台湾、レイテと米艦載機による攻撃が始まり、日本海軍はT攻撃部隊で対抗する。空母撃沈を含み、相当数の戦果を上げたと判断するが、実際の米海軍の被害は巡洋艦二隻が大破しただけであった。
・10月 内地にもどった菅野隊は零戦の出来上がり待ちで群馬の中島飛行機工場で待機。菅野のところに中学時代の親友が訪ねてくるが菅野は不在で杉田が対応する。「(菅野は)とにかく勇敢というか無茶というか、私もびっくりしているんです、なにしろ敵機に体当たりして行くんですから」…自分のことはさておいて菅野のことを伝えた。
・10/26 零戦の生産が遅れていて、仕上がりをまっている間に出張が伸びる。2週間くらいの出張を終え、フィリピンのマバラカットに戻る。関行男大尉の敷島隊特攻翌日であった。玉井副長は、特攻隊を編成するなら第一陣は菅野しかないと決めていた。しかし、ちょうど内地へ帰還中であり関隊に命令が下ることになった。この出張がなければ、菅野隊が特攻第一陣になっていたはずで、杉田も同行出撃となったであろう。
・10/27 特攻隊第二陣が出撃、菅野隊は護衛として特攻を見届ける。このときの空戦では17機の零戦とグラマン16機が戦い12機撃墜、失ったのは1機のみだった。
・11月初頭 菅野が内地へ帰る。(343空編成の密命があったと思われる)
・11/11 菅野が去ったことや連日出撃する特攻隊護衛任務が杉田を苦しめたのだろう、笠井を伴いピストルを持って201航空隊戦闘指揮所の玉井副長に特攻志願を申し出る。玉井副長から「特攻はいつでも行ける。すきなときに行ける。しかしお前と笠井は263豹部隊の生き残りだ。お前たちにこれから内地へ帰る命令を出す。俺の代わりに戦死した隊員たちの墓参りをしてきてくれ。」と説得される。このとき特別編成の航空隊への参加を伝えられたのではないかと推測する。
・12/1  笠井ら十期生が横須賀に到着、252空所属と言われる。その後、杉田が合流(翌年一月という説もある)する。
・特攻兵器マルダイ(桜花)の直衛のための紫電による特殊部隊が252空だと説明を受ける。実際は、304空はまだ開隊しておらず、訓練のために仮に252空に所属となっていた。
・12月中旬 橙色に塗られた紫電改試作機1機が横空に来る。
・12/25 松山で第343海軍航空隊が編成され、前線から優秀搭乗員が集められる。まず、戦闘301飛行隊が作られ、新撰組と名付けられる。その後、戦闘407(天誅組)、戦闘701(維新隊)、偵察4(奇兵隊)、戦闘401(極天隊)が作られる。戦闘301(新撰組)第一区隊は菅野直が率い、第二区隊長は杉田が任じられた。笠井は杉田の二番機を務めることとなる。
・12月下旬 紫電を使った激しい編隊空戦の訓練が始まるが、殉職事故が続いた。優秀搭乗員を核に編成されたが新人もおり、乗りにくい紫電の扱いでの事故が多かった。
昭和20年(1945)20歳
・1/1 事故が続いたため金比羅様に上空からお参りしようと菅野がベテラン達を引き連れ編隊飛行を行うが、帰着時に雪の積もっていた滑走路で紫電が脚をとられ、また一機殉職者が出る。
・1/10 練度が上がり、それまでの最多78機による編隊飛行訓練が実施される。
・301隊は訓練後に松山市内ですき焼き屋をしていた今井コトさんの家に集うようになる。今井さんは、すでに食材がそろわないために自宅でせいいっぱいもてなしをする。「他の隊の若い人たちはお尻や顔をぶたれて顔も何もアザで黒ずんでいる子もいて、街の銭湯ではアザだらけの尻を見られるのが恥ずかしいので前をかくさずお尻をかくしてはいるのだと話していました。それにくらべ、343空の搭乗員の皆さんの元気のいいこと、菅野隊長をかしらに飲めや唄えやの大さわぎで、そのうち裸で踊り出す人もいました。杉田(庄一)さんのドジョウすくいはうまいものでした。」・・・戦後の今井さんの話。
・2月 301隊の区隊編成が発表される。菅野小隊第二区隊は、区隊長1番機が杉田、2番機は笠井、3番機は宮沢、4番機は田村という構成だった。戦後、田村は次のように証言する。「私は驚きました。こんなベテランに混じって、私のような若年者が区隊に加えてもらえたのです。区隊編成が決まってからの杉田区隊の訓練は、実戦以上のもので、2対2の編隊空戦から始まり、急上昇、垂直旋回、急降下、宙返りと、私は笠井さんに離れぬよう、早め早めにスロットルを操作しても、時々離れてしまい、地上で見ていたある少尉にお叱りを受けたが、杉田さんや笠井さんは何も言わずに指導してくれました。」
・3/13 早朝、警戒警報。当直飛行隊の戦闘407が林大尉の指揮下で約40機の紫電改で上空哨戒にあがる。味方、大和からの誤射を受け、林大尉機が損傷。
・3/17 厳戒態勢。敵機動部隊が接近しており緊張感が増す。
・3/18 敵機動部隊、九州南部航空基地を空襲。343空も3飛行隊72機で迎撃にあがるが会敵せず、帰着。
・3/19 343空の初陣となる。06:50 偵4から緊急電「敵機動部隊見ゆ、室戸岬の南30海里」の報が入り、源田司令はZ旗をかかげる。紫電改56機、紫電7機で邀撃。菅野隊長2番機日光一飛曹が未帰還となる。杉田は短い間に5機を撃墜して帰還した。帰還した杉田は「弾があればもっと落とせたのに」と言った。その戦闘で杉田は源田実司令から司令賞を受け表彰された。杉田の区隊は区隊撃墜賞を受ける。笠井は当日腹痛で予科練宿舎で休んでおり出撃できず。日光は、姉が訪ねて来ていたが会う前に戦死するという悲劇が伴った。その晩、宿舎で杉田は田村を呼び出して声をかける。「タムタム(田村の愛称)、来い!」。田村は、今日の空戦で遅れたことがあったのでお目玉かと思ったが、「タムタムよくやった」とタバコ(光)をもらう。      
・4月 343空が松山から転出することが決まり、今井さんは自分の嫁入り衣装の白無垢を紫に染めたマフラーを301戦闘隊のために贈る。杉田区隊に贈られたマフラーには杉田の提案で「ニッコリ笑へば必ず墜す」と刺繍がされた。笠井が持っていたマフラーは現在紫電改記念館(愛媛県愛南町)に展示されている。
・坂井三郎との軋轢が激化する。坂井とは、大村航空隊時代に同じ教官として勤めたが、相性が悪かったらしい。個人技術を延々と説明し、時として鉄拳制裁を行う坂井に対し、実践的な編隊訓練を旨とする杉田は気質的にも相反していた。年齢も階級も大きく差があるのだが、実戦では負けないという自負から坂井に対して杉田は臆すことがなかった。源田司令はその辺の事情を知っていたらしく、隊長護衛役として杉田を同じような豪放磊落な性格の菅野の下につけた。菅野も杉田と気心が通じ、その信頼関係は上官と部下の域を超えた、仲の良い兄弟のようなところがあった。
・4/8 343空、松山から鹿屋(かのや)に進出。
・4/12 10:45出撃。菅野隊は途中で2機引き返す、杉田隊も2機引き返し、臨時に菅野、杉田、笠井、三ツ石で編隊編成をする。12:30奄美大島西方で東に変針、喜界島南方で左旋回、北に方向を変え、上空3000メートルで敵編遭遇する。F4U(12機)とF6F(36機)と空戦。杉田はキャノピーを吹き飛ばされながらもF6Fを2機、F4Uを2機(1機不確実)を撃墜している(喜界島空戦)。301隊の松村区隊二番機、山本精一郎は戦後次のように証言する。「空戦のとき、杉田兵曹の動きを見てハッと思った。すばしこい。短時間のうちに戦闘をすませて素早く戦場を離脱する。ケンカ上手というか、戦場のかけひきを理屈でなく体で覚えている。そうでなければ、激戦の中をくぐり抜けてあれだけ生き抜いてはこれない。これはいくら焦ってもダメだ。それだけ経験をつまなければ、と思った。」
・4/15  杉田、撃墜される。14:00ころに米戦闘機80機が鹿屋基地に来襲した。いち早く離陸しようとした杉田編隊であったが、杉田と二番機の宮沢一飛曹が離陸途中を襲われ、炎上墜落した。
・「第八根拠地隊」という地上部隊に安置されていた2人の遺体は日がくれた頃、根拠地隊に戻され、軍医科に置かれた。
・源田司令は戦後まとめた『海軍航空隊始末記』の中で次のように記述する。「情報入手時期が遅かったのと、はじめ迎撃可能と判断しために私の発信中止命令が機を逸してしまった」・・・菅野の落胆ぶりに源田は「菅野大尉、私の決心が遅れたために、杉田を殺してしまった。全くすまない。君もさぞ力を落としたことと思うが、私は天に誓って杉田に劣らないほどの操縦者を補充してやるから、しばらく待ってくれ」と言った。実際に後日、横須賀航空隊の武藤金義少尉を701飛行隊分隊士坂井三郎との交換を申し入れ、強引な交渉の末に実現する。
・第五航空艦隊司令長官より全軍布告個人感状が出され、2階級特進の少尉となる。
・8/1 屋久島西方の空戦で菅野隊長未帰還。                                                                        
・8/15 終戦
 
※ 2025.2改定
  *不確かなところがあるので引用はさけてください 文責 石野正彦 

<参考文献>
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